「視点をずらす思考術」「今を生きるための現代詩」を読んだ

読書

数週間ぶりに家に帰った。最近は家に帰ると近くの大きな図書館に行って本を借りてくるのが習慣のようになっている。技術書は学校の図書館で事足りるので、むしろ講談社の新書を借りることが多い。先週は図書館で「 [[ 視点をずらす思考術 ]]」「 [[ 今を生きるための現代詩 ]]」を借りてきた。SXSWに行く前に「 [[ 『臨済伝』を読む ]]」「 [[ ベッドルームで圏論を ]]」を借りた。前者は結構おもしろかったのに対して、後者はほとんど読まなかった。うっかり返さないまま出発してしまい、延滞になっていたのでついでに返してきた。あと何かもう一冊借りた気がする。図書館の利用者ページからは貸出履歴が見られなかった。

本当はそれぞれの本について別々の記事にしようと思っていた。しかし、読み終わってみると二冊に対比できる部分・共通する部分がくっきりしているように感じたので両方書いてみる。

視点をずらす思考術

ハウツー本だろうかと思って借りた。そんなことはなかった。前半のいくつかの章はどこかで聞いたこと・見たことがあるメディア批判のような話が多く、しかも文体に妙にイライラさせられてしまった。読まずに返してしまおうかと思いつつ、イライラする理由もわからずに返してしまうことにどこか後ろめたさを感じたので惰性で最後まで読んだ。 後半はなんとなくすんなり入ってきた。読む前に期待していた「視点をずらす」が最後の章に少しだけあったかもしれない。結論の根拠となるそれぞれの事例のなかには新鮮なものもあった。禅寺での体験とか。「わからないことへの不安」「信仰によって生と死の価値が逆転する」これらはわかりやすい表現だと感じた。 思い出した。出発前にもう一冊借りたのは「世界の陰謀論を読み解く」だった。陰謀論も「わかりやすい」から人々に受け入れられたとか、そんな話があった。

今を生きるための現代詩

適当に選んだ本。新書はすべて同じ装丁なので背表紙を見たときの第一印象に縛られずに選ぶことができる。テーマごとに現代詩の作者と作品を紹介している本。筆者のエピソードもときどき混じる。「今を生きるための」というのはどういうことかわからなかった。それを意識せずに読んでいたからかもしれない。上の本とは逆に、最初からすんなりと受け入れられる文章だった。これが癖のないものなのか単純に自分の好みに合っていた文体なのかはわからない。

学校での現代詩の教え方についての批判があった。詩はなんでも音読して暗唱して、一義的な解釈と技法を頭に叩き込むものではないという主張(なんか抜けてるかも)。自分としては同意できた。これで詩は嫌いだった。ただ学校教育としては暗唱することそのものに何か目的があるのかもしれない。そういえば塾で「発声」という授業があって、いろいろ覚えて面倒だったなあ。

作者の体験の先に詩などの作品が創られることが多いが、これが読み手の立場になると自らの体験よりも(作者の体験と)詩が先行するということが起こる。「ああこのシーンは詩で見たぞ」みたいな。それでいいとのこと。自分はまだ経験したことがないかなあ。

ある文章が取り上げられていた。実はそれは詩集の目次で、筆者はそれを詩と捉えてしまったそうだ。でも自分も文章を見たときそう読んだ。行末に並んでいる等差数列はページ番号だった。勘違いって楽しいなあ。

効率を追求しすぎてはいないかという主張。追求してたら詩なんかまず書かないよな。最近自分はどうでもいいことばかりを考えてしまっている。少し前に知り合いと二人で歩いていたとき話の流れで「たとえば空を見て『電線ってなんで黒色しかないんだろうなあ』とか考えちゃうんですよ」と言った。これはあくまでとっさに口から飛び出た例で、言葉にした後に「あーたしかに言われてみればそうかも、考えてみると面白いかも」と自分自身で思った。それで相手の返答は「え、そりゃあ〇〇だからじゃないの?」〇〇の部分はよく覚えていない。ちょっと残念だった。例として挙げただけの回答を求めていない疑問に対してわざわざ返答されたからではなくて、あっさりと答えを提示されてしまったからだと思う。まあでもそれはこんなバカな疑問に対しては正しい返し方だし、自分も「あー、そうですかねー」と同意してその話題を終わらせた。1+1=2ぐらいの明確さを持って返してくれたので違いを感じた。自分よりは効率的な人。結局電線が黒色しかない理由はよくわからなかった。それかただ単純に自分の考えに同意がほしかっただけかもしれない。おそらく自分が誰かの疑問を正面から斬ってしまったことも何度もあるはず。

せっかく3週間後に書いているのでもう一つ例を挙げる。情報工学研究部の仮入部。「bをaで割ったあまりd」を求めたいとき、C言語ではふつう「d = b % a」と書く。しかしまだ%という演算子がわからない一年生の彼は「b == a * c + d, d < a」という形であまりを代入できないかと考えた。

Cでは当然これは動作しないが、具体的な動作ではなく制約を与えることで目的を達成するタイプのプログラミング言語は存在する(Prologとか)。なんだかわからないけれど新鮮に感じた。それで写真を撮っておいた。動かないコードなのに写真を撮って、動いたらそのままどこかに行ってしまう部長はどう捉えられただろう。

その上で、『視点をずらす思考術』で取り上げられた「わからないことへの不安」がこの本でも出現する。この不安をそのまま受け入れる、無理にわかろうとしない力はnegative capabilityという。精神科医が書いた『方法としての面接』という本では相手の言いたいこと・考えていることが「わかる」ことはつまり自分にとって馴染みがあるだけ、という説明があるらしい。馴染みがないことは「わからない」に振り分けられる。詩の目次も黒い電線も「わからない」という能力があるからこそ考える対象になる。これを「まだわからないでいる」権利と筆者は表現している。ネタバレの話に近いようなそうでないような。

ちなみに、「クリエイターになりたい!」も借りていた(なりたいとはとくに思っていない)。過去の作曲家・歌手・文豪・画家を数種類のタイプに分けてその特徴を論ずる内容だった。これは最初の章しか読んでいないのでこの記事にも入れていない。例として挙げられる有名人の名前がジョージ・オーウェルを除いて全くわからなかったのに加え、本文中のカタカナの8割がその未知の有名人の名前だったために読む気をなくしてしまったのかもしれない。2番目の章で述べられていた(そして他の本でもよく述べられているであろう)、寝食を忘れて何かに没頭する「職人タイプ」にまったく共感できなかったのかもしれない。

…ここまで書きながらその本をパラパラめくってみると後ろのほうに納得する文言を見つけてしまった。もうちょっと読んでみたくなってしまった。困ったなあ。延長すれば返却期限はGWの終わりごろになる(GWは家に帰ってくる)が、面倒なのでその部分を含む章を読んでから返した。不思議なことに、章全体で読むとあまり共感できなかった。最初の章に比べればマシだった。ただあと数年経ってから読むべきだったような気がする。わからない。

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