2020/09/26: 夏休みを振り返る

例年に比べて遅く短い夏休みも終わりなので、3週間を振り返ってみる。実はあと数日残っているのだが、もう何も起こらないと思うので書いてしまう。もしかすると、もう何も起こってほしくないという意思表示を兼ねているのかもしれない。


阪大基礎工学部のツアーに行ってきた。感染症対策で研究室見学は少ししかできなかった。というより、少しでもできたのは幸運だった。同じ学科の人はほとんどいなかった。たまに現場を見ておくと、自分のなかの大学のイメージが変な方向に飛んでしまうのを防ぐのに役立ちそう。

無知を承知で正直に言えば、情報系の学科があって、学位が取れて、それなりに学ぶものがあれば大学はどこでもいいか、と思っている。コンピュータに関わっていればだいたい楽しめそうだし、逆にいえば特にやりたいこととか、研究したい分野がない(また今度書くが、近頃自分の「〜がしたい」を信用できなくなってきた)。物性とか機械学習の数理的なのはやや敬遠する…。モチベーションもそれほど高くないが、その割にはずっと勉強していたような気もする。あまり張り切っても能率は上がらないし、まあいいか。他にすることがなかったんだろう。どこか他人事のように思ってしまう。

後期になれば勉強をちゃんとやる人が増えてくるだろうから、それがちょっと心配になっている。置いていかれるといやだなあという不安もあるし、受験関連の会話を聞いたり、更新が激しくなったStudyplusのタイムラインを見たりして気分がふさぎ込んでしまわないだろうか、という不安もある。


物体としては個人は分かれているが、その考えは器官を通じて絶えず伝わっていく。そう考えると、その思考の部分についてはかならずしも個人単位のバラバラなものではなく、もっと連続的なものとして捉えられないかなあ、と思った。いや、書きたかったのはこんなことじゃない。

電磁気を勉強していると、場という概念を多用することになる(電場、磁場――電界よりも短く発音できるのでこっちの呼び方のほうが好き)。近接作用論においては、個々のもの(電子など)は、場というパラメータが介してはじめて、他のものを動かしたり止めたりすることができる。そういう場としばらくしっかり触れ合ってみると、社会や環境も場に例えられるような気がしてきた。もちろん、この場に対応する個々のものとは、すなわち個人である。場があろうとなかろうと影響しあうこと自体は変わらないのだが、場をメインに据えて考えてみると、個人が端に追いやられていく感じがする。個人から、個性が抜けて、場に溶かされ、揉まれ流されている、そんな無力なイメージが浮かんでくる。そういう個人になってしまいたい気さえする。

自分で書きながらバカバカしいと思うが、そうは思わない人が「量子論を説いていたお釈迦様」を生み出してしまうのかもしれない。しかし、まあ、流されながらダラダラしていたいとよく思ったのは事実。何をするにも面倒でしょうがなかった。パソコンもほとんど使わなかったし、HHKBを使うのは夏休みの間でこの記事が最初で最後になると思う。

また、変なことを考えていると、いつかそういう考えで頭がいっぱいになってしまって、いま以上にちゃんと考えられなくなってしまうんじゃないかという考えがよぎる。いま以上に、というのはつまり、現在時点でものを論理的に考えられていないと思っているという意味である。哲学書を適当に読んでいるうちにそういう思いが強化された(特に認識論)。論理的に考えるだけが脳の活動ではないとはいえ、それがちゃんとできるというのはすごいことなんだろう。


だるいだるいとは言いつつも、ある程度時間をかけて物理に取り組み理解を深めることができた。東京図書の「よくわかる」シリーズには足を向けて寝られない(寝てるけど)。運動量とかエネルギーさえも実はうまくできているというのがなんとなくわかってきた。どのようにうまくできているのかを説明できる水準にはまだ達していない。授業の先にさらっておいたマクスウェル方程式も、式をまとめて変位電流付けてみましたというだけの話ではあるのだが、いろんなところから出てきた式をそもそもまとめられること自体について「へーすげー」と感じるわけであった。他に挙げるなら一般化力の考え方とか。こういう抽象化のステップもぐっとくるところがある。群論とか好きな人はわかるかなあ。抽象化は示されてしまえばなんてことないのだが、それを自分で思いつくのは無理としか思えない。

そういう感じで知識の体系に畏怖の念を抱きつつ、ちまちま感動しながら謙虚に学習に取り組めるのが理想なのかもしれない。まあこういった感嘆もしばらくすれば面倒くせえ式のかたまりに成り下がってしまうであろうし、あまり初歩的なトピックについてこういった感想を伝えても鼻で笑われそうだから(なんか知識自慢として捉えられがちだし、そもそもこういうのは個々人がその歩みの中で見つけていくものだろうし)、こうやってブログに包んでおく。


「好き嫌い」という表現は食べ物に特有である。小学生ぐらいのときは何かを残さず食べて、「好き嫌いしないでえらいね」というようなことをよく言われた。しかし、小学生ぐらいになれば「好きだから食べる、嫌いだから食べない」よりかは複雑な考え方をしているだろうし、「食べているから好きなんだ」というのはいくらなんでも推論が雑すぎると思う。栄養素がどうのこうのといった知識がなくとも、野菜が身体に必要だとは知っているだろうし、嫌いだからといって食べないことの勿体なさぐらいは当時の自分も感じていた。むしろ、あまり好き嫌いという表現を使いすぎると、当人は「嫌いなら嫌いというだけで食べなくていいのか…?」と変な推測をしてしまうのではないか、と危惧する。

一方で、自分の「嫌いだから食べない」レベルから進歩していない性格の部分もいくつか思いついてしまう。つーかこれ夏休み関係ねえな。


アンケートでは性別をよく聞かれる。最近は男女の他に「その他」「答えたくない」という欄を設けるアンケートも多い。個人に関する情報はなるべく渡したくないので、「答えたくない」があればそれを選ぶようにしている。「答えたくない」がOKならそもそもそんな項目は設けないほうがいいと思う。これも夏休み関係ない。


こんなところだろうか。あまり関係のないことを書いてなぜこうも気が紛れるのか不思議でしょうがない。

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