SNSでの言及の構造
何かがSNSで話題になっているときに、自分の意見を表明したくなる。そういう人はそこそこいるし、そのような言及が炎上の燃料となって、プラットフォーマーの広告収入を空に打ち上げる。例によってTwitterで考えれば、言及の方法はいくつかある。リプライ、引用RT、 [[ 空リプ ]](subtweeting)、対象のツイートのスクリーンショットを添付する、「巷で話題の〇〇について〜」と単に述べる方法の4つをパッと思いつく。これらはこの順番で元ネタをたどりやすい(トレーサビリティが高い)。というか、前者2つのトレーサビリティが高すぎるから、ユーザーは後者2つの手段を発明したわけだ。また、現実の出来事を含め、炎上の火種となる事柄に対応するツイートはたいてい一つではない。結局何かまずいことが起こると、その現象を見た人々が同時多発的に・独立にツイートするのであって、それらの間にはツイートの対象とその時間以外の共通点はないし、それらを再度関連付けるシステム上の手段もない(自然言語処理などで復元するしかない)。したがって、それら全体を指して明示的に言及することはできない。それをやろうと思えば、こちらもシステム的な手段ではなく、他のユーザーの記憶と語彙に頼って、あいまいに言及するしかない。そういったものを含めてフィルタリングするにはどうすればいいんだろう。語彙ベースでは限界があるし、ユーザーの直前のふるまいを見て判断できるかもしれないが、それも確率的な判断になるわな…
リプライと引用RTの違いについて考えている。もちろんシステム的にはこまごました違いがあるわけだが、一つの印象としては、主客が逆転することにある。つまり、リプライをするときには自分はあるツイートに対して補足・対話をする客体であり、引用RTをするときには何か自分の印象をあくまで中心=主体に据えて、対象のツイートを自分の印象に与えるパラメータとしての客体として扱う。これはTwitterのUIと明快に対応していて、主体が常に上側に表示されるようになっている。リプライを受け取る側、引用をする側に、リプライを送る側・引用される側が従属している。「絵師にリプするやつになんかムカつく」気持ちもわかって、それにはこのような構造との不一致があるのかもしれない。リプライは客体として情報を補足したり、間違いを訂正したり、質問をしたりするべきなのに、主体としての単なる印象(なにそれが好きとか嫌いとか — こういうのは、情報そのものからは決定されずに、リプライをするユーザーの嗜好と情報から決定される)を書いているという不一致。
あるいは引用RTであれば「ボールを投げつけて終わり」が認められやすい、相手が返答のしようがないことを書いてもかまわない、というような認識が持たれているような気もする。そうなれば主客という分類はちょっとおかしくて、やはり会話かそうでないかという分類に落ち着く。相手に一応通知は行くんだけど、傍観者からはなんとなく二者(引用する人・される人)が相手を見ていないような印象を受ける。
Mastodonのリードプログラマは明確に引用RTに反対していて、Issuesでもいろいろと議論になっている。理由としては、ツイートを文脈から切り離して、引用者のフォロワーに叩く(dogpile)対象を晒し上げる効果があるからだという。
あと、そもそも(単純な)リツイートには多義性があって、何かをリツイートするだけでは、自分がそれに賛成しているのか、反対しているのか、それを面白いと思っているのか、晒し上げたいのか、意図を明示することはできない。RT ≠ endorsement を明記するアカウントも増えてきた。
自分のコメントとして「これ」とだけ書いて引用RTを行うケースも多い。この理由として、RTの対象に賛成の意図を明示することが考えられる。実際には、アカウント名を見れば大体意図がわかるので、無意味な行為のように思えてもやもやする。サークルの大会の案内に「見に来てね!」とか付け加えるのであればまだわからんでもないのだが…。あるいは、主客の逆転を狙っているのではないか、とも感じられる。単純なRTでは、基本的に自分の存在が「〇〇さんがリツイート」という小さなグレーの文字に閉じ込められる。これを回避して自分を主体として押し出す(宣伝する?)ためには、短い引用をして自分のツイートにしてしまうのが手っ取り早い。